LOGIN六月中旬。夏至を越え、夏が深まりつつあった。
今年は猛暑なのだろう。まだ午前中、室内にいるにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。 イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。 別に精神異常はないが、療養の名目上とのことでミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。 しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。 初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。 額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振る。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。 だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。 「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」 なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。 イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みをこぼして白く濁った瞳を向けた。 「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをするほどに、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」 さすが精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。 「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先のことはもうお決めになったのですか?」 こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。 「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。「え……盗賊をどうして」 丁度、長く薄暗い階段に差し掛かり、イルゼがぼかしつつ訊けば、彼は軽い笑いをこぼす。 「ローレライよりもう少し手前……川の中州に〝リスの塔〟って言われ関所あるの知ってる?」 確か、あまりぱっとしないクリーム色の石を積み上げた短い塔だ。 そこで船の通行料を取る。と母から聞いたことがあった。イルゼが頷くと、ミヒャエルは話を続けた。 「あの関所を襲う盗賊って結構いたもんだけど、自警団や有志で関所の警備強化したら、存外簡単に捕まえられたんだよね。だけど、それさえすり抜ける随分と小賢しいのがいてね。それがあの兄弟。まぁ、話し合いだよ。そしたら利害関係が一致した。あいつらが望む以上の対価を与えて……言い方は悪いけど、縛り付けた。それでね、使えそうだわって思って試しに雇ったら、想像以上の働きをしてくれたからねぇ。税金もよく集まるし」 ──正直、貴族の出の使用人なんかよりよく働く。それに俺だって元々、貴族育ちじゃねーから気楽。だから、イルゼがいても俺からしたら何の違和感もない。 彼はきっぱりと言い放った。 思えば、メラニーが〝利害関係〟で成り立つと言っていた言葉を改めて納得した。 しかし、そうとはいえ……。 「私、盗賊でなくとも殺人犯の娘です。領地の人にそんな娘を匿ってるだとか割れたら、間違いなく貴方が顰蹙を買います」 自分で言っていてやはり心が痛かった。だが、尤もなことだ。しかしミヒャエルは「バレやしないだろ」とすぐさま一蹴りする。 「それにさぁ。いつまでも、〝殺人犯の娘〟だの、忌まれ続けるのがおかしいと思うんだ。まぁそういう人の不幸をネタに笑い続けるの好きな奴って一定数いるのは確かだろうけどさぁ。でもイルゼは何もやってないでしょ? まぁ、肉切り包丁振り回したことに関しては、そりゃ……悪いとは思うけど」 そう言いつつも彼は
「そういえば、お義兄さんは今日もいらっしゃいます?」 その問いにイルゼはすぐに頷いた。 「ええ、夕方までにはこちらに訪れるそうです。私、そろそろ今後のことを義兄さんにしっかりと話をしようかと思います」「ああ、そうですか。是非、貴女の状態など直々にお話したいと思っていましたが、お仕事もなかなかにお忙しそうですね。自分がどうしたいかを断言することには勇気がいるでしょうが、応援しておりますよ」 優しい笑みを向けて、今一度頭を垂れた後、医師は馬車に乗り込んだ。 そうして間もなく、御者が手綱を握ると、馬車は緩やかに走り始める。中で手を振る医師にイルゼは唇を綻ばせて僅かに手を振り替えし、馬車が見えなくなると一礼した。 しかし、礼から直ろうとすれば、妙に視線を感じた。すぐに隣を見上げた途端、白銀の瞳と視線が絡まり合ったのだ。 ミヒャエルは、どことなく腑に落ちないような面を浮かべて後ろ髪を掻いている。何か言いたげだが、相変わらずによく分からない。 「どうしました?」と、とりあえず訊けば、彼は腕を組んでやれやれと首を横に振る。「修道院行きも良い選択だと思うけどさぁ。俺としては、もう城で働いちゃえば良いじゃんって思うんだけど。同じ領地なんだしさぁ。その方がヨハンだって顔出しやすいじゃん?」 ……これを言われたのはかれこれもう三度目ほどだろうか。イルゼは困却して口籠もってしまった。 つい先週。ミヒャエルに庭園を案内された後、見張り塔の中に作られた隠れ家で眠ってしまったことがあった。 夕刻に起こされて城に戻る帰り道、療養後どうするのかという話題になった。当たり前のように、修道院行きを選ぶと話したところ城に留まることを彼から提案されたのである。 領地から離れなくても良い。会おうと思えば、ヨハンにだって何時だって会える。鶏も殺さなくて良いし、胸くそ悪い義姉に会わない。養鶏業の援助や人員確保だって援助できる。〝別にイルゼ
六月中旬。夏至を越え、夏が深まりつつあった。 今年は猛暑なのだろう。まだ午前中、室内にいるにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。 イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。 別に精神異常はないが、療養の名目上とのことでミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。 しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。 初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。 額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振る。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。 だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。 「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」 なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。 イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みをこぼして白く濁った瞳を向けた。 「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをするほどに、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」 さすが精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。 「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先のことはもうお決めになったのですか?」 こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。 「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。義兄さんに会えなくなることはとても寂しく思いますが、一度しかない自分の人生をしっかりと歩みたいと思い
※※※ 「ルイのばか……」 消え入りそうな声が、霞がかった耳に届いた。 ミヒャエルは薄く目を開ける。 ──ルイ。今、彼女は自分をそう呼んだだろうか。 馬鹿というのは聞き捨てならないが……。 パチリと目を開き、腕の中を見ると、スゥスゥと規則正しい寝息を立てて眠るイルゼの顔が映った。 穏やかで、愛らしい寝顔。長い睫が頬に影を落とし、唇が僅かに開いて、どこかまだ幼い少女の面影を残している。 昨晩、魘されていた彼女を心配して部屋に行ったときに寝顔を見たが、寝ていても彼女は本当に天使のよう。愛らしいと思ってしまった。 まして表情が豊かになったことから尚更にそう感じるのかもしれないが。 ほんのり微笑まれると、鼓動が高鳴り幸せに包まれる。 しかし、ルイと……。 呼ばれた名を心の中で呟いた途端、背中に鋭い疼きが走った。 視界が歪み、やがて暗転する。 ──こことは別の、見張り塔。北側の、冷たい石の部屋。 父から受けた拷問に等しい虐待が、ふと脳裏に浮かぶ。 鞭の音が耳に残り、皮膚が裂ける感触が蘇る。鼻腔に立ち込める血の匂い。真っ赤に焼けた鉄と滴る汗。自分の皮膚が焦げる異臭……。 喘ぐような息をして、悲鳴をあげて、大粒の涙をこぼして耐えるしかできなかった惨めな子どもだった自分の姿が浮かび上がる。 ──父は一度も、本当の名を呼んだことがない。否、この城では誰も呼んでくれなかった。 忌々しい。汚らわしい。なぜ本妻の息子、ミヒャエルが死ぬのだ。死ぬのはお前が良かった。穢らわしいシュロイエの残党が。本当に厄災の瞳だと。 虐待と一緒に日々投げつけられる言葉は、毒のように心を蝕んだ。 だったら、愛人など作らなければ良かった。自分を作らなければ良かった。 どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない。 そうは思ったけれど
「当たり前です……。貴方は娼婦を束にして買うだとか爛れた噂がありますけど、私はそんな経験ないですもん」 羞恥と同時にほんの少しの腹立たしさがあった。 おずおずとイルゼはあの噂を口にした。 対して彼は「あー」と、間延びした返事をしながらため息をこぼす。 「実際、十人くらいは束で何度か買ったよ。でも全部仕事絡み。酒場や娼館って、金持ちの悪い噂がゴロゴロしてるからねぇ。それでも一度、『仕事しないと帰れない』って言われて……経験がないってのは嘘になるけど、さっきも言った通り、俺、そういう時はマジで勃たねぇんだわ」 ──途中で俺が萎えちゃって中断。なんて彼は、苦笑いで付け添えた。 なるほど。事実らしいが、そういう目的ではないことが意外だった。 もしかして、領民は噂ばかりで彼のことを誤解しているのではないのか? と、思えてしまう。 しかし、なぜだか彼の口から異性経験があるとはっきり言われると、心の奥にチクチクとした痛みを感じた。たとえ「中断」と言われても……。 淫蕩に耽る奇人・変人の猟奇領主だの言われているにしても。彼があの晩出会った傷だらけの少年──「ルイ」だと気づいてしまったからだろうか。 どうしてだか、胸の奥がモヤモヤして仕方ない。 けれどその感情の名を、自覚したくない。 少しばかり間を置いて、イルゼは僅かに彼を見上げてみる。こんなことを語らせて、少し機嫌でも悪そうな顔でもしているか。と思ったが、存外そうでもなかった。 「嫉妬でもした?」 しれっとした口調で言われて驚いてしまった。 「なんで、そうなるんです……」 目を細めて言えば、彼に後ろ髪を撫でられた。 短くなってしまったせいで、うなじに触れられると擽ったくて堪らない。 しかし微睡んだ彼は、ただ優しく笑むだけだ。 やはり、こういう顔は卑怯だと思う。 とても直視できなくなり、イルゼが視線を落とすと、彼は眠気で更
ミヒャエルはジレの内胸元から鍵を取り出して見張り塔の施錠を外す。 扉を開くと、そこにはこぢんまりとした小さな部屋になっていた。 ベッドにソファ。書き物机に、本棚も。床にはカーペットが敷かれており、もはやここで生活できそうなほどにしっかりとした作りだった。 イルゼは呆気に取られて空間を眺望する。 しかし、やはり窓がないので薄暗い。随分上の方に二つ窓があるが、そこから差し込む光はあまりに頼りない。 「まぁー見張り塔だし、暗いんだけどねぇ。ほら、ベッド使って。ちゃんとシーツも清潔だから安心してねぇ」 煤けた燭台を持つ彼は顎でベッドを示し、イルゼに使うように促した。 とりあえず腰掛けると、確かにふかふかで心地良い。 そして、彼はマッチを擦ると燭台に火を入れて、重々しい扉を閉める。 扉が閉まったと同時、空間は擬似的な夜に変わった。 暖かな橙の光がほんのりと辺りを照らす様はどこか心が和む。それに眠気が拍車をかけるように迫ってくるが……、ギシとベッドのスプリングが跳ねてイルゼは重たい瞼を限界まで持ち上げた。 「ほれ。寝るぞー。俺、滅茶苦茶眠り浅いから夕方には起こすから安心して昼寝して」 早速彼は、ベッドに横になり──「ここで寝ろ」と言わんばかりに、隣を叩き、イルゼの袖を引く。 「……え」 驚きのあまり、イルゼが目をしばたたけば、ミヒャエルは訝しげに眉を寄せた。 「眠いんだろ?」 「そ、そうですけど……私はソファ使います」 身分云々の前に婚前の男女だ。一緒のベッドで眠るなんて、イルゼの持つ常識的にはありえない。けれど、娼婦を束にするように買う彼からしたら、そんな貞操概念なんて皆無に等しいのだろうか。 「馬鹿いえ。女にそんな場所で寝させらんねぇーけど。ほら、おいで」 ──別に取って食